谷口幹男
大山竹二さんについては既に多くの先輩が書かれており
今更面識に乏しい僕がと言う思いがあるが、そもそも「ふあうすと」の誌友になったのは昭和24年の「ふあうすと」6月号の竹二さんの明鏡府の句、
臥して思う漱石嫌い志賀嫌い
さみだれが斜めに降って斜めに寝
蚊柱をしばらく見てて忿っとする
嘘もまた咳少なしとここちよし
近代にねじふせられて蚊を叩く
に感銘したからであった。僕は「川柳と言えば滑稽な句しか思い浮かばなかっただけに新鮮な驚きだった。現在においてもこれらの句を越えるものはない。川柳に必要なものは卓越した表現技巧もあろう、又詩への傾斜もあながち否定できないだろうが、やはり作家の自我の確立を除いては何もないということが竹二さんの句でわかるような気がする」
と後年、書いている。
僕にとって竹二さんの印象句は、皆さんもよくご存知の
門標に竹二としるすいのちかな
恩人は月ある夜の月の中
乳房小さき妻の嘆きは初夏の些事
もはや男少年草の実を嗅げば
昼の花火妻が居らねば誰も居ず
この最後の句は上5と中7下5との繋がりをイメージでとらまえてるのはどうかという昭和30年の千歳健氏の論にあてはまる。
僕は誰も居ないふたり暮らしのやるせない気持ちを香気高く読んだものと解釈しており、上5と後句をイメージでつなぐのは俳句的とする健氏の論には組し得ない。
また
花火黄に空の重心まったく西
も話題になった句だが、この発想の素晴らしさに僕は感嘆する。
また、竹二さんの作句の表現力には定評があるが、僕が感じたのは昭和25年、紋太還暦ふあうすと20周年記念大会が神戸須磨寺の楽々園で開催されたとき、「青葉」という題で天位の句が竹二さんで
乳母車余りの青葉から逃れ
だったが、この「余りの青葉から」という表現に余人にはないものを感じた。この絶妙な言葉づかいは
子の着く日(弾むでもなく)菊を切り
と詠んだ房川素生さんと双璧であろう。
竹二さんのいわば遊び心とも言うべき連作は
「小篠のいのち」
家をおもう小さき勝気褄をとり
蔑んだお金の下に身をさらし
家柄はさみしい時のはげみなり
さいころのすべてが叛く冬の底
恋と名と担いきれないうしろむき
「春恨譜」
酒に哭く夜を欲りとおもふや怖ろしや
夜に霽れて巷に寝るはひとり男
硬ばった唇憐れ見て女人去る
春ふすま正邪のこころ摶たせつつ
若きいのちを一瞬に崩すべきかあらず
独り寝の哀れに男灯を残し
水さしの水旨く干し独り寝る
われ壮し然しきびしく身をつつむ
五指握りひらき策なき旅の夜具
春蘭けて眠らんとする畳の香
春の夜の虜と動く身を制し
春恨のわが身を救う煙草の火
春の闇人を罵りたくおもふ
枕ひとつ惑いに克てば睡りつく
東京に夜話をつくらず風が落ち
花の冷え男がひとり寝ては覚め
悔かあらず省線旅の目をさまし
みだらなる想いに雪ぐ朝の光彩
壮き皮膚に曇りなく夜明けたり
清夜明け心も肉も我れを離れず
「婦系図」
お蔦とは二重瞼のさみしい名
美しき無智十六の撥を持ち
狛犬のうしろに廻る恋ごころ
真砂町からの夜道を悶え抜き
声色をきいてる瞳のうつろな瞳
三千歳を遠くに聞いて恩に泣き
おくれ毛の二筋三筋風があり
かなしさは男のこころ知りつくし
早瀬主税と言う名も今夜限りの名
諦めてからの首筋細そう垂れ
分別がついてかなしい笑い顔
柳橋に死ぬ外はなき身のまわり
恩人のきびしさが尚慕われつ
東京も未だ美しい人が住み
頼り合う心二つに夜が深し
がある。房川素生さんは婦系図について「さすがに一句毎にそつがなく無駄な句弱い句が少ない。 作者竹二はこの作で一応断わったような〈市井の夢〉「後記」を付しているが、〈竹二の郷愁的な庶民性〉と書いた私の、その庶民性、情緒性、そして、それらのものからの諦観、または義理人情についての竹二の憶い出を、もう少し書き続けたならば、〈婦系図〉が単なる休息日的作品でなかったかもしれぬものがあると思う。」と言っている。
この婦系図について竹二さんは「市井の夢」と題して「勤め人にとって日曜が休息であるように、川柳する上に於いても一度や二度過去の夢を追う停頓状態があってもよいと思う。
新しい道に進んでゆく苦しみは尊い。近頃流行の現実主義、勿論賛成する、がそんな人たちばかりの川柳界になった時の空漠を考えると、とてもさびしい一人位低俗な生き方をしても許されてよいだろう。嘲笑われるとも青春の感傷を過去に持ち、古い道徳にしたしんでゆく。」と書いている。
この文章は昭和12年3月ふあうすと9巻3号に掲載されている。竹二さんは当時30歳そこそこであった。
ところで、竹二さんは明治41年神戸市兵庫区荒田町に生まれた。房川素生さんの追憶によると彼は早く職に就いたのでまだ勉学があった、川柳もその重大の勉学と職務の中から始められたとある。
この稿を書くに当たって丁寧に貴重な資料を探してくれた椙元世津さんの便りによると「一狂(竹二)さんのこと、懐かしくおさない頃の花隅時代、可愛がって貰ったことなど久々に思い出しよかったです、若い頃の一狂さんは上原謙みたいと人気でした。」とある。
また椙元紋太さんは「竹二と私」のなかで「戦前まで竹二は私をおじさんと呼んでいた。くすぐったかったが私は返事していた。なにしろ二十年も早く私のほうが先に生まれたのだから、戦後になって、特にこの、六、七は、年齢を離れて対等の間柄で話をした。おじさんはやめて紋太さん、あなたで助言、意見もして呉れた。」と述べている。
昭和16年3月、増井不二也さんの媒酌で結婚、一狂を竹二に改めた。
出発(一)
友情は濤とせまりて妻を得たり
いのち二つ小さな家名ありて倚る
妻を得たしずかさ父母に燈をともし
淡き色の二つ溶け合うただ淡く
その両掌人の情けに沁みとおり
恩に立つ夫婦の向う道ひとすじ
出発(二)
娶る日の天穏やかに母の忌日
木蓮に机上整うほのかな香
河明り夫婦博多に仮寝する
妻と竝び妻の生家の土間に立つ
葵の実妻を育てし庭閑か
痩身にきびしき生計賭してゆく
一つずつ義理足して行く快さ
出発(三)
雨に出る妻の化粧を一度責め
愛の世に夫婦の無学荷とならず
大き世の易き動きに汝狎れ
つくろわずショパンを知らぬまま娶り
花は薔薇譬え無きほど卓に照る
蚊帳購うて蚊帳の重さを妻が持ち
世帯して夏の肌着を日毎干し
簡単着妻となりたるこころうち
体操に行く妻覚めて独語する
の句がある。
素生さんは「竹二は晩婚だった、それには彼としては成り行きに任せたというより、彼の思慮深さからであったと言うものがある。 竹二夫人が始めて私方を訪れてくれた時、店の女の子らが歓声を上げて夫人を称えたことを覚えている。またその頃から竹二(当時一狂)は多作家であり秀作家であった。受付も置かれてなく句会半ばに名簿と会費受けのお盆が廻されるようなのどかな有様の句会の頃だったが、三句吐に四句抜ける方法なら一狂にきけ、と言ったりする程いつも竹二の句はよく抜けたものであった。」と褒めて書いている。
その後、竹二さんは病み、有名な「春寒録」で「昭和20年3月17日 神戸にて戦災に遭ひ命一つ病む身を妻の生家にのがれ云々」とあるが、その病閑にうまれた句は
身につけし服のみ生命ある首途
春夜寒く注射の腕を拭かすなり
五号焚いて一日暮れてゆく夫婦
本二冊特に食べたいものもなし
朝寝癖病を少し持て余し
六甲つつじ吾が生活のごとく少さし
葉桜のレントゲン科をくぐるなり
疲労すこし野を焼くそばに病余の身
蕗の味五年を遂に子無きなり
母の日の一碗白き飯をのせ
がある。
また病中吟としては
昼の花火妻が居らねば誰も居ず(前掲)
早くから病駆拭かせて花火待つ
熱の舌しかと葡萄のうすみどり
などがある。
同じ病中吟として同時代の俳人石田波郷の句がある。
遠花火二つ三つ見て寝返りぬ
妻よりも吾が疾く起きて冬椿
寒苺病を生くるまた愉し
竹二さんと波郷さんは同じ病に冒され、皆に愛されて亡くなった。句もまた相関が感じられる。
母の忌も父の日も過ぎ梅十日 竹二
海へ出る線路をまたぐ春の人 同
くもの子の逃げ遅れたを逃すなり 同
葉桜の匂いはげしき身の置き場 同
木蓮の油すずしき昼の髪 同
バスを待ち大路の春をうたがわず 波郷
雷すぎことばしずかにバラを撰る 同
夜桜やうらわかき月本郷に 同
春の月頑なに行く肩低く 同
青リンゴひとの夏痩きわまりぬ 同
波郷さんは昭和40年の「毎日新聞」で
「俳人は俳句しかないのである。詠みたいものはすべて俳句でやるほかはない。おびただしい字余りや、破調、日本語本来の話法を犯す叙法も、詠みたいものがあふれてやまないからだという考へ方にも、同じ俳人として同情はできるのである。しかし同調はできない。俳句表現にはたしかに限界がある。俳句といふ詩型を破ることなく、この限界をひろげることはむづかしいかも知れないが可能である。」
と述べているが,竹二さんも
「川柳が人間性、或いは人生の探求にその歩調を同じくするとき、伝統、新風の訣別は無い筈である。表現の新奇のみが新風でない。表現の新奇は僅かなる変化であって、根底の川柳する精神の揺らぎではない。」
と語り、時代精神を同じくしていることが感じられるのである。 お二人とも革新を志しながらも伝統の枠は超えず、伝統の枠を拡大しようとしたように僕は思える。
竹二さんは昭和37年11月、55歳の若さで亡くなった。
そのご臨終の模様を増井不二也さんは
‘「咳が止まって楽になったと思っていたが、夜中こんどは胸で痰の音がゼイゼイ鳴るが排痰が出来なくなり再び苦しみ始めた。死因は自然気胸、肋膜と肺との間に空気が溜まり、それが肺を圧迫して息苦しくなったとのことである。」
と語っている。
多くの方が弔いの言葉また弔吟をだされているが、その中で特にふあうすと川柳社の哀悼の言葉をお伝えしたい。
(竹二さん、私がこんな哀しい別れの文を貴男に捧げようとは夢にも思っておりませんでした。美しく儚い生命の神秘と運命のいたずらは詩人の心得としてよく承知しているつもりでおりましたが今この身に降って湧いたような貴男との別離に際し唯茫然自失というほかはありません。悲しみは時を経るにしたがって深く濃くなるものとかやがては怒涛の如くこの身を押しつぶすことでしょうが今は神に対してさえ押え難い怒りが一杯でございます。
竹二さん さようなら 竹二さん さようなら、心置きなく天国の階段へすべてを忘れて胸を張っておいでください。
さようなら。 ふあうすと川柳社)
竹二さんが亡くなって47年の月日が流れた。生前の竹二さんを知っている人も数少なくなっているが竹二さんの格調のある素晴らしい句はなお、多くのフアンに持て囃されている。竹二さんが模索した「十七字に残された道」を葵徳三さんは第六回川柳作家合同句集及びその周辺の句
フエミニストぶらず充実した家庭
琴はしずかな悲しみがある五十過ぎ
山に死ぬをほめたくもなる性書
凧あがる空地さえなく排気音
灰皿を客に並べてまったく無
が竹二川柳がこれから発掘しようとした新視野による川柳だったと論じている。伝統的川柳を脱却して行き着くところは何処か、永遠の課題のように僕は思える。