記録  香川とふあうすと交流史

 

 「ふあうすと」が香川に根を下ろしたのは昭和13年、山本芳伸さんが神戸から高松に転勤になったときから始まる。 芳伸さんは香川県川柳史覚え書で

 「私が神戸三越から高松三越へ転勤を命ぜられたのが1938年の12月、その暮れの25日に中突堤から出帆、翌26日朝高松着、広場というところの蓮井旅館におちついた。」と書いている。 このとき紋太師が贈った餞別の句が僕の記憶では「島へ行く舟これですか小さい舟」である。

 芳伸さんは高松の地元柳人と交わり川柳を楽しむも昭和19年に応召し、南鮮で終戦を迎えた。戦後、昭和22年に「瓦」を創刊して川柳活動を再開し、昭和22年には高松三越で川柳会を復活させた。 このときの仲間に現同人の横山小観さんがいる。

 また同年、高松商に「若人」が誕生しこのメンバーに現同人では安西まさる、村尾孝峰に僕が居る。

 

1、ふあうすと大会への香川からの参加

 神戸の大会に僕が参加したのは昭和25年4月29日の須磨寺楽々園のふあうすと20周年紋太還暦記念全国川柳大会が最初で、このとき房川素生さんがうちへ泊まれと言ってくれたが丁度神戸博で停泊中の船に宿泊所がありそこへ泊まったことを記憶している。素生さんに後日待っていたのになぜ来なかったと叱られた。大会では参加者に紋太師染筆の短冊が渡されたが僕のは「クリスマス握手した人忘れまい」と書かれていた。この短冊が現在行方不明なのが残念である。

 その後、昭和29年のふあうすと25周年、昭和34年の創刊30周年紋太古希記念などの大会があったが香川から参加しているのだが手元に記録がない。

 昭和44年の創立40週記念大会では340名余りの参加という盛会であり、香川から芳伸、孝峰、雲峰、柳陰亭、峰代、水声、幹男の8名が出席している。僕は其の時、「港」

という題で選を仰せ付かっている。そのときの会費が300円というのに今昔の感がある。

 昭和45年4月11日に紋太師が80歳で逝去、会葬に香川から6名が出席している。

 葬儀で増井不二也さんの悲痛な告別の辞と会場に散る桜が印象に残っている。

 翌年、神戸海洋会館で第一回紋太忌川柳大会が開かれ第17回まで毎年続いており、昭和63年からはふあうすと川柳大会となり平成7年の阪神淡路大震災の年以外は現在まで毎年続いており、香川からも毎年、参加をしている。

 大会選者は第4回に「水」第8回「流れる」第15回「若い」平成9年「港」平成14年「手品」で幹男選、第5回は「めぐる」で芳伸選、第6回は「原稿」で柳陰亭選、第10回は「招く」平成元年「誇る」平成8年「輪」でまさ代選、第12回は「楽しむ」平成3年「偶然」平成12年「差」で春子選、第13回は「足」で麦二(晋一郎)選、第14回は「湧く」ではじめ選、第16回は「夜」真砂子選、第17回は「洗う」平成10年「育つ」はまさる選、昭和62年は「潮どき」平成4年「葉」で 富久男選、平成2年「平」で町子選平成5年「枝」でみどり選、平成10年「橋」で弘子選、平成15年「舌」で繁郎選、平成18年「草」で幸選である。

 またふあうすと賞、紋太賞は昭和48年に第1回が始まったが香川からの受賞者は

 「ふあうすと賞」 安藤まさ代(第1回 佳作1席、平成4年度優秀1席)(昭和56年度 優秀1席)小田二十貫(第2回 佳作1席 昭和58年度 優秀3席) 谷口幹男(第5回 最優秀)堤春子(昭和56年度 優秀3席)古笹原芳子(昭和57年度 優秀3席)北藤嘉子(昭和59年度 優秀3席)坂東弘子(昭和61年度 優秀2席、平成8年度 準賞1席、平成16年度 準賞2席)大谷晋一郎(昭和61年度 優秀3席)和田町子(昭和62年度優秀2席)安西まさる(昭和62年度 優秀3席)中野加代(昭和63年度 優秀2席)若草はじめ(昭和63年度 優秀4席)上藤多織(平成3年度 優秀4席)田村道明(平成14年度 正賞)嶋村 幸(平成16年度 準賞1席)

 「紋太賞」阿部吉春(第1回 佳作2席)国方艶子(平成16年度 準賞1席)

 以上、やや煩雑になったが記録に留めたい。

 

2ふあうすと誌の香川柳人

 ふあうすと誌に執筆した香川柳人については村尾孝峰さんの「ふあうすと香川の歩み」

 で詳細な記録があるがこれから拾うと雑詠欄では「真珠圏」芳伸(昭和36年2月〜)

 「マスモノ抄」繁郎(平成15年9月〜)と「全人抄」幹男(昭和59年5月〜)(平成18年9月〜)「魚鱗集」幹男(昭和63年2月〜)がある。

 また「 天来抄」 は富久男、まさる、まさ代が担当、「 男性コーナー」 は幹男、まさる、はじめ、晋一郎「 女性コーナー」はまさ代、春子、芳子、町子、みどり、弘子が担当している。

 「明鏡府鑑賞」 は幹男、芳伸、多度津グループ、はじめ、孝峰、柳陰亭、富久男、繁郎、治、まさる、七星、俊生、比呂詞、二十貫、たかせ川柳会、弘子、夏男、天朗、多織、ええ一、幸と多くの人が執筆している。「巻頭言」も芳伸、まさる、幹男、はじめ、

 富久男、繁郎、孝峰が書いている。 これら多士済々で拾い落ちもあるだろうことはご容赦願いたい。

 

3神戸柳人の來高

 記録では紋太師はは昭和24年6月13日、三条東洋樹さんらと來高されたとあるが僕は丁度川柳を始めたばかりのときでその事情は知らない。その後昭和25年1月の新春川柳大会が自治会館で行われたときに来られたが、「紋太の書簡」 では前年12月に「小生の今の予定では船で行きます。」と芳伸さんに手紙を出している。この頃は瀬戸大橋も無く神戸は遠いところであった。昭和25年5月にはNHK出演の折紋太、句沙弥を囲む会が行われている。僕は出席できなかったので句沙弥さんから葉書を頂いている、

 昭和30年5月には紋太師は大島青松園を訪問、「(新居浜へ行く予定だが)戻りの30日か31日に島に渡りたい」と手紙にある、記録では31日に行っている。昭和32年10月文化の日川柳大会が玉藻城内で行われた時は大森風来子さんと参加、昭和33年5月蜂の巣川柳会9周年に参加している。

 房川素生さんもよく高松に来られ、生意気だった僕は「幹男はん、理屈もよいがもっと上手に句を作りなはれ」とギャフンといわされた。素生さんは幹男は昭和新山だ、しかし常識は繁栄すると「案山子」 にも書かれた。

 大高角嵐さんは昭和12年の案山子創刊号に「三号のクリーク越えよ川柳誌」と祝吟を寄せられた古い作家で昭和34年11月の文化の日川柳大会には時実新子さんと来られている。

 紋太師から主幹を引き継いだ鈴木九葉さんも高松へはよく来られた、その後巨城、静港子、比呂史、現在の花城さんと歴代主幹の方々がと毎年大会毎に参加されている。

 静港子さんは一時、丸亀へ赴任されており「鱗」 10号に「四国有縁」というタイトルで一文を寄せられている。

 副主幹の前川千津子さんも香川とは縁の深い方で、九葉さんとご一緒に抜井ユキさんらと大会に参加された、現在でも椙本世津さんとよく来られる。

 昔、一泊しないと行けなかった神戸も今は電車で3時間足らず、高速バスも走っており、往来がしやすくなった、今後もますます交流が深まって行くに違いない。

 

4ふあうすと香川同人の推移

 昭和25年の同人名簿に載っているのは山本麦一(芳伸)( 昭和11年)塩田龍一

 の2名と記録にある。

 平成19年7月の同人名簿では

 昭和30年代  安藤富久男(昭和39年4月)谷口幹男(昭和30年2月)山下繁郎(昭和31年4月)横山小観(昭和30年3月)

 昭和40年代  高島真砂子(昭和48年1月)堤春子(昭和48年1月)村尾孝峰(昭和42年5月)山下芙美(昭和42年7月)山路恒人(昭和42年9月)和田町子(昭和46年1月)昭和50年代 6名  昭和60年代  3名 平成元年以後  39名

 となっている。

 同人の推移は同人名簿で見ると

 (平成元年) 72名 (平成11年) 66名 (平成15年) 61名  (平成19年)

 58名 と減少しているのは残念である。

 

5ふあうすと系の県下柳社

 現在、ふあうすと系で活躍している柳社は新樹川柳会(高松市)、野菊川柳会(高松市)

 綾上川柳会(綾川町)、高瀬川柳会(三豊市)で柳誌を発行している。

 新樹は毎年3月に、野菊は7月に大会を開き神戸柳人も参加してくれている。

 


目次へ