巻頭言(3

川柳をつくること

 川柳教室で生徒さんにお尋ねするのは「何故何の為に川柳を始められましたか」と言うことである。 川柳を始めた動機は人によってさまざまである。

老化防止のためとか、人に進められて、又文芸に興味を持っていたからというのが一般的だろう。

わが師、森西鳥さんは九州大学国文科の出身で、江戸歌舞伎の研究をしておられ、文献に江戸川柳が多く出てくることで川柳に興味をもたれていたところ、

当時のラジオ川柳で山紫さんや芳伸(当時は麦一)さんの選が発表されていたのを耳にされ、これに投句されたのが始めと聞いている。私の場合は、西鳥さんが国語の先生で、学校農園で芋つくりをさされていた生徒を集めて句会を開かれ、「若人」と言うサークルを作ったのに私も参加したした事が動機となっている。東京の安西まさるさんや村尾孝峰、久保尚子さんらが生き残りである。 始めた動機は別としてなんのために川柳を作るのかといわれると皆さんはどんな答えを持っておられるのだろうか。幸い、短詩文芸では歌会、句会がありその座で自分の句が発表され、まして誉めそやされるとそのために労力を費やす人も多い。また句会に発表され時には授賞されるとなると川柳を続ける動機にはなる。各地にサークルがあり、川柳大会が催されるとこれに参加する事も楽しみになり、又各地の柳人たちとの交流も嬉しい。

こうしてたくさんの句が作られ、忘れられていくのが通常であるが、これでは人間関係のほうが主となり作句は従になり易い。 私は昭和50年ごろから作句ノートを作り句を書きつらねてるが、時折眺めていると時々の自分の思いや出来事が思い返されて楽しい。たとえ句会で没になった句でも作者には忘れがたい思い出の句であり、後に残しておきたい句はあると思う。 大会での選を見ても共選という場合が良い例であるが選者の人生観、世界観によって一方で天の句、一方で没になるのも多い。これが三人共選、小句会での全員共選となるとさまざまになる。

選者がカリスマであった時代にはその人の選に入選しようとして必死になり句風もその人に似てしまうことがある。選者が多くなればいわゆる当て込みも通じる事になる。 句会や句誌での入選を絶対視せず、たとえ没の句でも句帳に書き留めていくことがやがて句集にまとめる資料になる。私が玉藻抄をやがては自選にすべきと主張するのはここにある。

このような話の場合何時も例に引き出すのは神戸の房川素生さんの句集「道」である。素生さんの生き方がこの句集に詰まっている。川柳は川柳を作っている人の思いの発表手段で他の文芸の発表手段と変わりないのである。

(案山子誌)


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