巻頭言     座の文芸として

                谷口幹男 香川

 

 川柳が現在叙情の一行詩として位置ずけられようとしているが、座の文芸として〈笑い〉〈穿ち〉〈軽味〉と言った知的センスの側面も無視出来ない。座で一つの題を出して優劣を競う場合、題に対して附合の妙とか即意当妙さが受けるのだが最近は一字題の詠みこみが持ち込まれてきている。これは雑詠精神と言うか題の一字が作句動機でしか無くなって来ている故である。例えば座で出す〈山〉は富士山とか立山という現実の山であって〈一山〉とか〈山出し〉ではない。 句の優劣だけを競うのであれば座の精神は崩れてきていると言わざるを得ない。

 もう一つ座といえばせいぜい十数人の集まりを想像するが最近のように各地で百人単位の大会が開催されるようになるとこの面からも座は崩れて来ている。

 小人数の会は大会のように選者は切り捨てご免、参加者は唯聞くだけではなく選者と参加者の間に対話がなされるので座の意味が出てくるように思う。

 〈笑い〉〈穿ち〉〈軽味〉を川柳の三要素と言っていた時代はとうに過ぎ去ってはいるが短歌の持つ主情の世界が広がってきてみると叙情の一行詩だけでは満足できないものがある。大山竹二さんは〈詩人との差は判然と語学の差〉と詠んだが私自身詩人の語彙に追いつく努力をしてはいない。川柳が文芸で中でどこの場所を占めるのか模索を続けなければならない。

 サラリーマン川柳は川柳の三要素を復活させようとしているように思う。唯、〈笑い〉と言っても弱者を見下ろす優越者の笑い、くすぐり、艶笑的な笑いは拒否したい。

又、掛詞や語呂合せも困る。川柳の笑いはほのぼのと微笑を持って詠む人に好感を与えるようにしたい。〈焼き飯を子供の前で食べこぼし〉のユーモアや〈大笑いした夜やっぱりひとり寝る〉のペーソスは今後も持ちたい。

川柳は5.7.5と言う狭い容器の中ではあるが中に盛る内容は幅広いものであって良い。唯根底にあるのは自己の思いであってこれを叙情、又はユーモアの表現で良いと思う。 唯恐れるのは平板な生活日記になってしまうこと、また大会の入選に拘って個性を失うことである。 

 昔、終戦直後の頃、好きな同士が寄って句会を楽しみ座にでた冷やしうどんを食べながら和気あいあいに会話を楽しんだことが忘れられない。私は川柳をつくる原点はここにあるように思えてならない。雑詠が中心になってきたこの時代、座の集まりで小句会を持つことは意義あるものとこの頃思うようになってきている。

 


 随想集へ