巻頭言 5            川柳についての思い

 

                             谷口幹男       

 

 県下川柳界も五十年前と比べて様変わりしたことが有る。当時は県下の大会でもせいぜい五十人ぐらいだったものが,今年の大会では県下だけで百六十人前後に定着した。

この大きい理由は女性の川柳人が急増したことである。 田辺聖子が書いてるように江戸川柳では川柳はおとこの文芸だったものが現在ではまったく薄れ、〈笑い〉〈穿ち〉〈軽み〉の三要素も言われなくなった。また女性が進出したことで主情的で詩的な要素が多くなってきた。特に身辺雑記を書きフィクションの要素が乏しくなってきたのは川柳に面白みを無くした一因であろう。身辺雑記を詠むことは決して悪いことではないが,日常生活の報告なり感想だけでは読者にとっては退屈でしかない。同じことを何回もいうようだが、川柳は日常の中の非日常を見出すことで読者にも同じ感動を与えることが出来れば最上である。革新といわれる句の内容が陳腐な日常をレトリックしたものでは詰まらない。平易な言い回しであっても読者に何らかのショックを与える句が望まれる。

 昔の句には古川柳の影響もあって義理人情の世界の句が多くてこれの打破を目指せと書いたものだが今は人情句といわれるものが少なくなった。やはり世間はドライな方向に進んでいるのだろうか。

 最近私にとってちょつとショックだったのは「案山子十月号」の淡路放生さんの「たまたま」と言う随想文の中味だった。その中で「川柳マガジン」での前田伍健さんの合評の話が載っていた。其処で岡崎守さんの言葉を引用しているが

 「(前略)五十年以上前の作品であろうから、このような句(なんぼでもあるぞと滝の水は落ちという句)でも川柳として通用したのかもしれない。(以下略)」

という同氏の発言には吃驚した。五十年前から現在まで川柳はそれほど進歩したのだろうか。時の流れで変化はしているがそれが果たして進歩といえるのだろうか。五十年以上前にも立派な作家が良い作品を残しており我々は大いに参考にしている。 現代の作品は先人の文芸志向を基盤として成り立っていると私は思う。

 

 


 

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