川柳考察についての片言隻語(一)
−川柳・俳句・詩−
私がかつて「ふあうすと」全人抄の「選後に」に書いた文章の前置き部分と、「案山子」に連載した「わる口三分褒め七分」を再構成して、「川柳と伝統」について私の基本的な考え方のあらすじをたどりたい。
昭和53年1月に神戸川柳協会が行った「放談−現代川柳について」のパンフレットが手許にある。このなかで、柳俳接近についてというテーマで時の川柳社の卜部晴美氏は、「川柳の区別はつけられるものでありません。俳句にもいろいろ流派がありますし、川柳の中にも俳句的なものがあっても良いと思います。私は川柳家であるから自分の詠むものが川柳だと思っています。ラフな考えで対応すればよく、自分の楽しみであればよいと思っています。厳密に俳句、川柳の区別は必要でないと思っています。」と発言し、同席の人々もこれに同意している。
だが一方、「俳句入門」のなかで楠本憲吉氏は、「(川柳は)最も近い隣接文芸なのでありますが、しかし、俳人の作った俳句に対して、{あなたの句は、まるで川柳ですな}といってごらんなさい、その人は決していい顔はしないでしょうし、ひとによっては侮辱されたと取って怒り出すこともあり得ましょう。少なくとも、俳人の大多数は、川柳文芸とは、ハッキリ、ジャンルを異にして俳句文芸を作っているという明確な意識をもっていると見て差し支えないでしょう」と述べ、山口誓子の言葉を引用してその相違を述べている。
私は、川柳ははっきり俳句とは異なったジャンルであり、その違いを際出たせるものがいるように思っている。唯、同じ十七文字だから、同じ日本人がつくるのだからというのなら、川柳と狂句を一緒にしても良い筈である。私が「俳句の世界をちょっと覗いてみるということをやめた方がよいように思う」というのは例えば一句の完結性のこと、切字のこと、季語のこと、即ち川柳とは異なったルールで運用されている世界のことを知らず、恰好良さみたいな感覚で借用してくることをやめることで、俳句のことなんか知らなくてよいということではない。
かなり昔の四国新聞・俳壇の松岡一郎選に、
入学の子に母の席遠過ぎる
があった。この選者が俳句として入選させた句のいかに川柳に似かよっていることか。川柳に俳句的な表現があるように、俳句にも川柳的な表現があり、たしかに似かよって来ている。今は終刊してない「鱗」に、かつて短歌の山上次郎さんが、新聞の俳句欄には川柳を、川柳欄は俳句を載せているのかと思ったと書かれている。こうした俳句と川柳の混り合いは一面やむを得ないものはあるとしても、ジャンルははっきりしておいた方が良い。そうでないと、「私は俳句は出来ませんが川柳ぐらいは」と言われ、下手な俳句が川柳だと位置付けされかねない。俳人小野蒙古風さんは「川柳よ(俳句に)近寄ってくれるな、暑いから」と言われた。それでも川柳は俳句にすり寄っていくのだろうか。
やはり以前の四国新聞俳壇の松岡一郎選に
騒然として整然と阿波踊
があった。作者の小国要さんは朝日新聞柳壇にも投句しておられ、俳句と川柳の二刀流であるが、ご本人はどういう分け方で作っておられるのか。踊(盆踊り)は秋の季語で、この句も俳句として言うことはないのだが、句の全体に漂う川柳味は隠し難い。
同じ頃の「案山子」に阿部吉春さんが、
編笠をのぞいて見たい阿波踊り
という句を作っておられたが、この二句の差はあまり感じられない。
これも同じ頃にテレビで放映された、上田五千石選の俳句入選句の川柳への近さに驚かされたものであった。
ご来光待ちてピッケル持ち直し
雲海の孤島に我ら家族のみ
ためらはず香水求む祝婚日
香水をつけてどこへも行かぬ母
香水を変へて己を見失ふ
とくに第一句下五「持ち直し」という連用どめは川柳そのものでなかろうか。
俳句が{季語}{切字}{自然描写}を離れ、生活俳句、職場俳句など人事に近くなる反面、川柳が{季語}{切字}をレトリックのように使っていれば、当然のように混交してしまう。かつて俳人の蒙古風さんの言った「川柳が俳句に近寄る」だけでなく、俳句もまた川柳に近寄ってきているのは間違いない。
{ほたる}{萩尾花}{冬至}{山茶花}{石蕗}{タンポポ}{油蝉}こんな季語が柳誌の一頁だけからも見出されるとき、蒙古風さんの言葉を思い出さずにはいられない。
最近俳句の方でも「ユーモア」と「軽み」はなにも川柳の専売特許でないと言っているそうなので、双方が寄り添い、抱き合うことも時代の流れから仕方のないことかもしれないが、ある歌人が言ったように「どれが俳句でどれが川柳やら」と巷間言われていることを忘れてはならない。
俳句と川柳の差異については、その基となった連句をみると判然とする。「(前略)連句の発句であるとしても、和歌の上の句のように、下の句(脇句)がないと一句の意味や情趣が完結しないのでは、発句の資格はないということになりました。そこで表現上、完結した形をとるために{や}{かな}{けり}{らん}{つ}{ぬ}{ず}などの切字が必要となりました。かつ、雑(季語なし)の平句(注:連句の第二句以下の句)と違って、必ず季語を詠み込まなければならない発句(俳句)は、季節の詩であるとする、今なお墨守されている固定観念が醸成されたのです。(中略)芭蕉晩年の元禄初年から、付合稽古という名目で、宗匠と一般大衆の間で流行しはじめた前句付は、俳諧の大衆化に便乗したものでしたが、流行するにつれて出題の前句は、{うらやましがるうらやましがる}{さてもめずらしさてもめずらし}といった、付けやすさを狙った正体のない無季の句となりました。したがって応募の付句もほとんど無季の人事句となり、やがて付句を引き出すだけの役割しかない前句を削り、長句(注:五・七・五のこと)の付句だけをまとめて出版する(注:柳多留のこと)ようになったのが、切字を必要としない川柳です。」−暉峻康隆・宇咲冬男著{連句の楽しみ}桐原書店−
要約すると、俳句−季節詩−完結性(切字)に対し、川柳−無季人事詩−余情性(付句につづくという意味の)と大別される。五七五であればすべて川柳という大まかな解釈が現在の混乱を招いているが、これからどの方向を辿ろうとするのかわからない。
(注:芭蕉は俳諧の発句と一句独立した発句をわけて考え、分けて作っている。ともに季語、切字をもつが、俳諧の発句は付句が付け易いように配慮されている。俳諧の大衆化というときの大衆は、和漢籍を理解できた知識人を指し、単なる庶民ではないので注意を要する。柳多留の句は、初代川柳選のものを古川柳、四世川柳選以降を狂句というのが正しく、椙元紋太は川柳明治説を唱えて、明治以前に川柳はないとした)
「俳句は沈み、川柳は流れる」といわれる。これは俳句が俳諧の発句に始まるので一句の独立性を言い、川柳は同様に平句に起因するので付句への思いが流れるということである。
前句付では
降る雪の白きを見せぬ日本橋
駿河屋は畳の上の人通り(にぎやかなことにぎやかなこと)
と五・七・五に対する七・七にかかっていく。これを一句のなかに収めるとすれば
日本橋雪も積もらぬにぎやかさ
とでもして、一句のなかに{にぎやかさ}をとり込まなければならない。
川柳で余情というのは、付句の七・七のなかで読者が感じることを前句の五・七・五で表現することで、前掲の句では{にぎやかな事}が読者の坐る場所である。
全国的に水府、紋太さん等が築きあげてきた川柳が、昭和40年代以降少しずつ変質化し、抽象的な思いを直接句に盛り込んでいるものが多くなってきた。
渡り廊下の長さを夫婦だと思う
昔ばなしと笑って話す日を待とう
やじろべえ下は見ないほうがよい
泪の木ばかり大きくしてしまう
ライバルだからいつも立派でいてほしい
こうした句を読んでいると作者の思いがそのまま句に出ていて、読者の坐る場所を空けていないと思う。作者としては読者に伝えたいことは一杯持っているに違いないのだから、こうした思いの押しつけではなく、もう少し違った表現で読者に思いを伝えてほしいと心から思う。例えば
渡り廊下の長さを夫婦だなと思う
というのは一句のなかに読者の場所までもとり込んでしまっていて、作者の意図とは別に、作者の思いを読者が聞かされることになってしまっていると思う。具体的に言うと句の巧拙は別として
渡り廊下の長さを歩いて行く妻と (これが夫婦だなと思う)
と私はつくりたい。この(これが夫婦だなと思う)を、読者の坐る場所にしたい。最近は一句のなかにすべてを言いつくして、思いを言外につないで行くということをしないが、川柳の起りからみて私はそうした詠法にはあまり賛成できない。
すぐ顔に出るので怒るのはよそう
最近はこうした詠法も流行しているが私はどうかと思う。
すぐ頭に来るので怒るのはよそう
すぐ胃へと来るので怒るのはよそう
すぐ涙が出るので怒るのはよそう
と類似の句がこうした詠み方では一杯できる。
紋太さんの句に
大笑いした夜やっぱりひとり寝る
というのがあるが、{淋しさ}を感じるのには上五の{大笑い}の言葉が動かし難い。もうひとつ、この句は
大笑いした夜淋しくひとり寝る
ではさっぱり駄目である。{やっぱり}という言葉がどうしても必要である。言葉が言葉と鎖になってつながり合い句になる。ひとつひとつの言葉はからみ合って余情をかきたてる。
川柳にもう柳多留は要らないという説があるようにも承るが、川柳の原点である{笑い}{うがち}{軽み}を、また川柳の持つ風刺精神まで否定して詩に傾斜してしまってはいけないように思う。昔、私は川柳があまり川柳らしさに閉じこもるとき、川柳の範囲を外へ拡げようとして{ひらめき}ということを言葉にしたことがあった。自分では革新の位置と思っていたものが、外部にどんどん追いこされていって、いつのまにか保守の立場に坐っているのも時代のせいだろうか、自分ではすこしも位置をずらしているように思わないのであるが。
最近の川柳がますます詩への傾斜を深めているように思えてならない。かつて房川素生さんが「詩を追えば詩人に劣る」と書き、大山竹二さんが「詩人との差は判然と語学の差」と詠まれたように、詩に傾けば川柳本来のエスプリはどっかへとんで行ってしまい、不完全な現代詩となってしまう怖れがある。元来、我々日本人は文学的とはシリアスなもの、深刻なものと規定し、ユーモアとか滑稽は排除し勝ちである。また具象的なものより抽象性のある方がより高度のように思っているようにも思われる。五・七・五の僅か十七字の詩型ですべてのものを言いつくすわけにはいかない。技巧だけを誇ったり、ひとり合点な句を指導者のほうも追随しほめそやして、その行く末はどうなるのだろうか。私を含め草の根の人達が理解できないような句より、多くの人達が生活の場で生活人の実感から湧いて出た句がたとえ拙かろうと価値があるように思う。
「川柳は人間である」という言葉がある。現在、いろいろに使われて「川柳は人間である」と「川柳は詩である」が同一義のように言われているのでないかと思う場合もあるので、これを明確にすると共に川柳そのものに対する思考を深めたい。
「川柳は人間である」というのは、紋太さんが大正から昭和45年に没するまでの間に何回も言った言葉であるが、昭和13年6月の「ふあうすと」誌上の文の冒頭で、「私は十年前に{川柳は人間である}と言ふたことがあって、そのまま何故そうであるかといふことを言はずに来た。」と述べている。当時の時代背景として、「川柳は詩である」として新興川柳を主張した田中五呂八等に対し、石川青龍刀が「川柳非詩論」をかざして対峙しており、この間に立つ柳人は「川柳は川柳である」と切羽詰まった言い方をしていた。川柳詩論が川柳革新という旗のもと、従来の伝統的な三要素を切り捨てたのに対し、非詩論は理知という基盤に立って川柳の詩性を否定した。川柳を詩とも詩でないとも言えない人達は、川柳は結局川柳ではないかという実体主義に立ったわけである。
紋太さんの人間論もやはりこの実体論の上に立つもので、「こう言った中に、同じく苦しんでいた私の、遂に口にしたのが{川柳は人間である}であったのである。自分でこうは言ったものの、矢張りこの一語にして言い尽くそうとする、至難の試みに敗北した形で、川柳は川柳を一歩進めたに過ぎぬかも知れぬのである。即ち川柳を一語に喝破することは人間を一語に言い尽くすに似ていたからである。人間とは何ぞや、これを言い現わす言葉の多くが浮かんでくる。−(中略)−人間が所謂生き物である如く、川柳も一つの型にはめ込み得ないものを持って生存している。人間を説く至難さとは相一致している。川柳を説き得る人は、人間を説き得る人であると言っても差支へないと思ふ。」と述べている。
以上のことからして、「川柳は人間である」という言葉は、「川柳詩論」「川柳非詩論」の谷間で、それよりも実作主義を主張した紋太さんの言葉と私は受け取る。実作主義というのは逃げの言葉のようで逃げではない。川柳が僅か五・七・五の狭い世界で詩的展開をはかるならば、結局言葉足らずとなって独断の渕に陥る危険をはらんでおり、また非詩として乾いた諷刺の世界に安住するなら鼻持ちならない嫌みの沼に落ちるかも知れない。川柳が川柳として独立したジャンルを守るのには、詩とか非詩とかの不毛の論を越えたもうひとつの世間があらねばならない。それが「人間」という言葉で表された川柳の世界でなかったかと私は思う。
紋太さんは「続・川柳は人間である」(ふあうすと−昭和26年11月)のなかで、「作品は作家の人間そのものであること、その人間は特に選ばれた人間でなく、どこにでもうじゃうじゃしている人間であること、川柳はそれ等の人間の全てを、表現するに適した句体であること、これが私の言いたい要点ですが−(中略)−川柳は川柳として、客体に扱っている間は「川柳は人間である」は遠い話です。私は他の短詩のことは関知せず、只川柳一本槍です。ですから川柳は人間であって貰わなくては困るのです。」と言っている。
紋太さんは作品は作家の人間そのものであると言い切っている。また、川柳は川柳として客体に扱っている間は「川柳は人間である」に遠い話と言っている。川柳作品のなかに自己をあからさまに投影した作品こそ、人間の川柳と言えよう。
現在、川柳は詩でないという人は殆ど居なくなっている。従って詩が川柳に覆いかぶさってきている。かつて素生さんは「詩を追えば詩人に劣る」と言い、竹二さんは「詩人との差は判然と語学の差」と唱った。先人はともすれば詩に傾斜しやすい川柳の自由さを憂えたのに違いない。川柳がより詩に近づくことを文芸性の向上と思っている人達もいるかも知れない。しかし、川柳が俳諧の平句の練習としての前句付を出発点として、{笑い}{うがち}{軽み}という日本的なユーモア精神の伝統を捨てて、明治以降の近代詩の一行に化していく姿をみるに忍びない。川柳をもう一度、紋太さんの言う「川柳は人間である」という世界へ戻したいというのが、この頃の私の心境である。