川柳考察についての片言隻語(二)
−言葉・選のことなど−
「川柳と伝統」の周辺事項として、「言葉」「選」「批評」「句会」についての考えを補足しておきたい。
川柳の他、短歌や俳句も作って幅広い活動をされた、今は亡い中川梵天さんは、ユニークなアバンギャルドで、ひらがなをアトランダムに並べて言葉の音楽的響きを味わってほしいという川柳をつくったりされていたが、それは遊びで本気であったかどうかは疑わしい。川柳を一行詩としてのとらえ方をすればどんなものを詠んでもよいが、ひとつのジャンルとして想定すれば、川柳の発生から現在に至る歴史的な流れを全然無視はできないと思う。川柳で自己表現をしようとすれば自分の持つ人生観、世界観を押し出さざるを得ず、それが他人に受け入れられなくても已むを得ないものである。しかしながら、借り物の思想、借り物の言葉でいくら川柳を詠んでも(たといその句が大会で天位に抜けたとしても)空しい行為ではなかろうか。
今頃俵万智さんを採りあげるのは時代遅れかも知れないが、ベストセラーになった彼女の初歌集のファンは、むしろ歌人以外の一般大衆にあったと思う。
「嫁さんになれよ」だなんて
カンチューハイ二本で
言ってしまっていいの
というライト感覚は短歌の埒外にあるのではなかろうか。俵さんを与謝野晶子と比べる人もいるらしいが、晶子の「柔肌の熱き血潮に触れもみで・・・」など一連の歌の底に明治の女権の抑圧されたものを感じるのに対し、俵さんの歌のアッケラカンさは女性差別なんてもはや感じるべくもない。それはさておき、当時の朝日新聞「今日の問題」欄が、サラダ現象として俵さんをとりあげたなかに、俳人金子兜太さんの「俳句でサラダ化が難しい理由は、五七五七七の七七がないところにある。短歌は七七の分おしゃべりができる。叙情性が出せる。俳句の五七五の定型を話しことばでやると、すぐ川柳の分野に踏みこんでしまう。」との発言を引いている。短歌が話し言葉で歌人以外の人達にも分かり易く語りかけて成功していることからみても、川柳が川柳の仲間うちに閉じこもってしまい、一般の人達に理解できないようにしてしまっているのは困ったことである。川柳は季語とか切字に縛られず、五七五という狭い詩器のなかではあるが、その天地のなかでは自由な表現が許される。俵さんのようなサラダ感覚は川柳のなかでも活かせると私は思う。
子の着く日弾むでもなく菊をきり 素生
今は亡い福岡の泉淳夫さんが、この句のよさがわかる人が少なくなったとかつて話されたと、藤本静港子さんが研究会誌「扉」に書かれていたことがあったが、たしかに最近の句は言葉づかいが荒っぽくなって微妙なニュアンスが感じられなくなって来ている。もう何十年も前になるが、まだ若かった私が小生意気な意見を「風車」に書いたのに対し、素生さんは一言、「まあ、もっと上手に句をつくらなあきませんなあ」と言われたことがいまだに痛烈な印象として記憶に残っている。
子の不遜じいんと皮膚の下に受け 素生
喪があけて不意にかなしい晩の菜 素生
やはり、素生さんは地味ながら的確な言葉づかいをする人であった。
最近は自分の思ったことをそのまま句にしてはばからなくなってきたが、その思いをためにためて、充分発酵させて句にする名人芸を見る機会はなくなって来た。その代わりに{鬼面人を驚かす}式の奇抜な表現がもてはやされてきているようだ。
かつて松岡十四彦さんが「案山子」で例にあげられた
「カルメンになるマリアになる」
「ピアノが開く静かに開く」
という韻の踏み方にしても詩の世界では常套的なもので、川柳にその手法を持ちこんだに過ぎないと思う。
歌論に{花}と{実}というのがあるが{花}とは表現の巧みなもの、{実}とは内容のあるものということのようだ。{花}の華麗さは必要であっても、その盛られた内容が平凡なものであればそう高い価値は与えられない。私はよく「あなたは何のために川柳を作られるのか」とたずねる。それは様々な理由であっても、帰するところは「川柳がその人の思いの発表手段」という処にある筈であり、単に大会で上位に入選するとか、句誌のなかでもてはやされることでない。
自分の感情に忠実に書くことは良いが主観的に{好きだ}{ステキだ}といっても描写がなければ相手方にはわからない。以前に
曲り角のポストもやがて死ぬだろう
という句が話題になったことがある。作者はその思いをまっすぐ句にぶつけたのだろうが、読者の方は唐突な思いしかしないのでなかろうか。これは下五の{やがて死ぬだろう}という断定が上五、中七につながり難いからである。
鶴を折るひとりひとりを処刑する
という句も同様だと思う。共通の広場がなくて作者が直感的な言葉を用いることは慎重を要すると思う。
ここ二十数年、川柳が次第に主情化され、抽象化されてきておりその結果作者の言いたいことが読者につながり難くなってきているように思う。たとえば、
駆け落ち者の死は花火だと思う
という句を作ったとすると、読者は何か意味のあることに違いない、これがわからないのは自分が未熟なのだと卑下し、作者の方も厚かましくこれがわからないのは勉強が足りないのだとさえ言う。旧い作家たちはこうした傾向の句がわからないと言えば権威が落ちるように思い、許してしまうどころか称賛さえしてしまう。新しく川柳に入ってくる皆さんが期待しているのは別のことだと私は思う。最近自分史ばやりであるが、川柳活動を通じて自分の生き方を川柳という詩型を借りて表現したい筈である。こうした人達が句会という場で抽象的な押しつけがましい句が上位に抜けていくのをどんな気持ちで見ているか、私は川柳とはそんな遊びだけのものでないと常に自分自身に言い続けている。
最近、句がわからなければもっと勉強したら良いと言う人が多くなったようである。五・七・五という狭い詩器で、いかに自分の感動を相手に伝えるかという技術があって、その上で読み手の無理解で難解になっているのだと極付けられるのであればわかるが、私は相手に勉強せよという前に、自分の思いをどう表現すれば相手に伝えられるのか努力すべきだと思っている。自分のひとり合点の独善があるのではないか、また知らず知らずに仲間内の暗号を使っているのではないかという反省の上にたって、なおかつ相手方に勉強せよと言えるのなら、それはそれでよい。私もそう言える自信を持ちたい。
また、勉強せよと言うのであれば、抽象的でなく、どういう具体的なやり方で勉強するのか教えて欲しいものである。先生が生徒に勉強せよというのとは訳が違う筈である。作者は自分の句を全部わかって欲しいと思い、選者は相手の句を全部わかってあげたいと思う、こうした関係のなかで、お互い人生観、世界観が違うので、どうしても理解し得ない場合も生じる。そのようなとき、作者としては縁なき衆生は度し難しとして選者を敬遠せざるを得ないだろうし、選者としてもわかった振りをして知名度とか流行に振り回されたくはない。選者が選をするのは一定の技術である。選者の理想としては、あの人の選なら納得できるという人達に囲まれて選が成り立っていくことで、選句の多寡とはあまり関係のないように思う。
選者と作者のかかわりについて書くとき、私はどうしても作品を前にしての選者と作者の相対的な関係に思いがいってしまう。
ある作品をみて、たしかに用語とか言葉遣いの巧みさは感じられるが、作者の持っている川柳への構え方に疑問を持ってしまうとどうしようもなくなる。たとえば
エンピツの芯が折れると眠くなる
と仮に作ったとしよう。そうすると、エンピツの芯の折れるのと眠くなるという因果関係を考えるのが常識的であるが、これが詩であるといって、また経験的にそうであったことをいって許されるのであろうか。これを強弁して{エンピツの芯}というのは自我であって折れることは挫折である、人間は挫折に遭うと自己防衛から現実に眼をそむける、{眠くなる}というのはこうした現実逃避を言っている−といってゴマカすこともできる。抽象的なもの言い、主観的なもの言いで自己主張するのが川柳という風潮に苦々しさを感じながら、といってどこに脱出口があるのか。いま、川柳はいろいろな人に、フォークやナイフでつつきまわされて、ころもをはがされ、無残な姿になっていっているように私には思える。作者が作品といった型で川柳という代物を提供してくれるが、どの川柳がおいしいのか、こうなれば総体論ではなくて、ケースバイケースの各論で選者としてはかわしていくしかない。
一般に選者というと何かエライ人と感じるかも知れない。宛名書きにもわざわざ先生という敬称をつけてくれる人もいる。しかし、選というのは与えられた句に一定の尺度をつける作業であり、その結果については褒められるにせよ、けなされるにせよ公開の場で力量を試されることに他ならない。選をした場合、この句は私が好きだったから、また何となくというのだけが基準であれば投句する側もたまらない。私の場合は
一、句に何らかの発見があるか、または作者の思いが私なりに理解できるか
一、句体に無理がなく、用語も適切で句にバランスがあるか
一、発想が類型化していないか、語彙は作者独特のものか
一、独り合点や、押しつけがましさがないか
一、何よりも借りものはないか
などを基準としている。所詮、選者の個性によって選は左右されるものであり、その評価は批評によってなりたつものである。選の良し悪しは、選者の練度の他に価値観、世界観の在り方による場合が多いので、作者の側からは{常にあなたの選を見ていますよ}というのが最大の選者への鞭となるだろう。
「ひとり合点」な句は作るなと昔から教えられてきたが、最近はそんな句が多い。{僕はこう思う、わたしはこう思う}と主張せずに言外にそうした思いを感じとれる句をわたしはつくりたい。
ついでにもうひとつ言うと、「発表されたものはパブリックである」ということである。句評するものにとって、もし発表された句がプライベートなものとすれば、口をはさむことができない。わたしの句評の場合ではないが、よく「あの句評は作者に対して失礼だ、先輩なのに。」とか「句評は褒めるだけにすべきで、そうでないとサークルの和が保てない。」という言葉が句誌に出てくる。川柳が社交の道具とか、親睦の手段であるというなら批評というのは要らないのだが、もし文芸として取り扱われたいのであれば、発表した以上どんな扱いをされても耐えるべきで、もし異論があれば反論を展開したらよい。批評は作者の個人攻撃をしているのではないので(勿論個人攻撃になっていれば批評とはいえない)、この点を取り違えないようにお願いしたい。
一億総批評家時代というか、選者に対する批判的空気が比較的強くなってきているように思う。選者と被選者とは所詮力関係であり、カリスマ的な選者が被選者を畏敬させ拝跪させれば、たとい鷺を鴉と言いくるめても通ってしまうが、現在のように価値観も多様化した時代には何が正しいのかわからなくなる。こうしたことが川柳にも若干表れてきて、あの選者は感覚が古いとか現状についていかれないとか言われたり、選者自身も迷ってしまってそうした風潮に迎合し勝ちになる。このひとつには川柳がすこし仲良しクラブになり過ぎて、作者精神よりも肩書とか義理の付き合いに比重が増したことにもある。川柳以外の夾雑物をなるべく棄てて句と対決していかなければと思う。といってなかなか実行できず、ひたすら自己嫌悪を感じている。
句会について私の考えを述べてみたい。昔に比べて川柳人口も増加し、句会も大会にもなると多くの人々が参集してくれる。それは有難いことで、とくに遠来の客のなつかしい顔を見るのはうれしいことには違いない。しかし、ともすれば人数を集めることを第一義とし、初心者が多いことを理由に選句数をことさら増やしたり、選者を営業政策的に決めたりし勝ちになる。
全没になる参加者のいることを怖れるあまりの寛選とか、選者の手ごころがもしありとすれば、句会の楽しさを半減してしまう。また大会がたといお祭りという考え方にしろ、句作がおざなりで、懇親会風になってしまうも程度がある。初心者への配慮もわかるが、たとい全没でも他人の句を聞いて参考にし、次回を期待する初心者も多いことからみて、少なくとも選のレベルを下げることだけは避けるべきであろう。