現代川柳の流れ
今まで八回に瓦って川柳入門の話をしてきましたが、そろそろクローズを
するときが参りました。現代川柳は略歴のところでお話したような歴史的過
程をとおり、「笑い」「穿ち」「軽み」といった三要素を基盤にしてきましたが、
現在他の短詩型文芸と入り混じり詩的傾斜を深めつつあるようです。
風葬の丘で弾んで死ぬ風船 はな枝
稚魚と結んで掌にはおろおろほむらづくし 可奈子
キリストは許したがわら人形よ 三鈷
脳天に炎を置くはなさけかな 亮介
温かくなるなとポケットのナイフ 明
このように作者の主観がむきだしになってきたのは、従来の川柳の鋳型
では納まらない多様化の一現象です。
思えば川柳は俳句と同様にといった日本的な詩型を持っているだけにど
うしても、影響し合うことが多すぎます。
歌人の山上次郎氏も、
「私は川柳も俳句も全く知らない。それでも眼がついているから新聞の川
柳欄、俳句欄の二つを見ることがある。おや見出しが入れかわっているの
じゃないかと思うことがある。要するに川柳と題して俳句であったり、俳句と
称して川柳らしいのである。考えてみれば川柳と俳句はともに五・七・五、い
わば兄弟だ、だから当然といえる。私はときどき思う、僅か十七字で句とは
何と幅の広いことよと。」
と述べています。但し、俳句には一応、「季」とか「切れ字」といった約束事が
あり、自然諷詠ですが、最近は人事に互る職場俳句もあり、人間を詠う川
柳と混同する場合もあります。川柳ももともと俳句をつくっていて川柳を始め
た人はどうしても俳句臭が残りますし、また短歌からはいった人は短歌的な
心情を詠う傾向にあるようです。山上次郎さんがいみじくも言われたように
五・七・五の幅の広さは、ともすれば川柳の主体性までも押し流しそうです。
知ってるかアハハと手品やめにする 紋太
急ぐのに前が千円札を出し
焼飯を子供の前で喰べこぼし 句沙弥
こういった万人共通のほのぼのとした笑いの句、また
門標に竹二と記すいのちかな
花火黄に空の重心全く西 竹二
しりとりのリスとリンゴはもう云った
小鳥網はげしく空を想うとこ 石荘
といったリリカルな句は最近影をひそめて、自己主張的な句が多くなっ
てきているのは残念だと思っています。
最近、こんな句評をしたことがあります。
つまずいた事が不幸の分れ道 清風
<評>たしかにある事件があり、その事件をきっかけに悪い方へと転
がるのが人生です。しかし、この句では具体的に言っていないので、格
言めいたものになってしまっています。
例えば、
夜逃げする親子四人に星が降り
という句があったとしましょう。この句に続けると、
夜逃げする親子四人に星が降り−つまずいた事が不幸の分れ道−
となり、前の句の説明になります。川柳は読むひとにつまずいたことが
不幸の分れ道になったのだなぁと思わせることが大切です。
ともすれば主観的で抽象的であろうとするのは手近に現代詩があり、
その手法を真似るのが作句上楽でもあり、高踏的態度がとれるかも
知れませんが、川柳の本来の面白さを奪っていっていることは否めま
せん。
俳人楠本憲吉が選者の「よみうり時事川柳」の
あらたふと奥のはや道新幹線
特別機成田を避けてトンデレラ
という語呂合わせから、
根雪が映すおかめの青いふくら脛
鹿道に迷う生きる証しの木の実独楽 いね三
まで、五・七・五の幅の広さを痛感するだけに今後の川柳の流れが
気になる現今です。
この先行き止まりです。ありがとうございました。